本物にふれる~芸術を学ぶ意義

感性を磨くとは何なのか?

新緑も濃くなり、花々が色とりどりに咲き誇る季節ですね。

人々の活動がコロナ禍で抑えられていようがいまいが、時期がくれば木々は芽吹き花は咲く。自然の営みの大きさを感じます。

さて、昨日友人から久しぶりに連絡がありました。近況など報告し終わった後に友人が切り出した要件というのが、「一緒にネットワークビジネスやらない?」というものでした(苦笑)。全く興味がないので即断りましたが、ふと「前にもこんなことあった」と思い出しました。この友人は好奇心旺盛で行動力があり、人付き合いも広いので、この手の話もよくくるのでしょう。ただ、いろいろ首を突っ込んではみるもののハマってしまうことはないようです。もともとの性格もあると思いますが、そうしたものにどっぷりと浸かることはできない価値観が、友人には備わっているように見えるのです。だから「またか」とは思いつつ、危険なことにはならないだろうという安心感(?)はあります。

私がそのように思う根拠はなにかというと、友人の心はもっと良いものを知っているから、一時的に興味を惹かれたとしても、心を奪われることはないだろうということです。共に音大で学び、卒業後もずっと音楽の世界で活躍してきた人です。日々の練習研鑽の中で、作品と深く向き合うことを続けてきています。クラシックの曲は古いものは数百年の年月を越えて伝えられてきています。歳月を経ても変わらず現代の人の心に通じるもの、人の心の深いところから生まれる喜び、悲しみが、優れた作品の中には含まれています。それを表現していこうとするためには、演奏技術を身につけ、時間をかけて積み重ねていく必要があります。私見ですが、優れた作品に真摯に向き合うことを長年続けてきた人の心は、本物を求めるようになっていく、まがい物では満たされなくなっていくと思います。

「正しい知識があれば、怪しいものにひっかかることはそもそもないだろう」と言われればその通りですし、もちろん正しい知識を持つことは必要なことだと思います。しかし、すべての方面に知識を持つことができなかったとしても、「なんだか良いとは思えない」という自分の心の声が、危険に方向には踏み出さないブレーキになることはあり得ます。正しい判断をするためには正しい知識と、本心から欲しているかどうか自分の心の声を聞く感性が共に必要なのだと思います。

美しいもの、優れたものにふれて感性を磨くという芸術教育は、単に良い趣味を育てるとか心を豊かにするだけではなく、人生においてより良い判断をする力を育てるという大きな役割があるのではないかと思います。